For All the Radiant Darknesses すべての美しい闇のために〜エッセイ集
あとがき
本書に収められたエッセイは、二〇〇二年から二〇〇六年にかけてHP上で書いてきたエッセイの中からいくつかを選び、それらを大幅に改稿したものである。
書き上げられたものを改めて読み返してみると、三編(『ひとすじの川』『海をわたる帆船』『素晴らしき人生』)以外はすべて僕がその時期に出会った人々のことを題材にし、彼らの身の上に実際に起こった出来事について書いている。それらの出来事のうちのいくつかは、戦争や社会の崩壊などによってもたらされた過酷で厳しい現実の中で起こったことであり、僕たちの日常からは想像すらできないほどの苦しみと悲しみに満ちている。
一方、残りの出来事について僕はうまく説明できる言葉を見つけることができない。それらの出来事はおよそ常識的ではなく、読む人によっては「作り話」としか思えないかも知れない。それらはごく普通の感覚では理解できないし、誤解を恐れずに言えば、超自然的な力の現われとしか呼びようのない何ものかである。
だがすべては、そこに書かれたように実際に起こった。それらは事実であり、まぎれもない現実である。
「そんな不思議なことが、ほんとうにあるのだろうか?」
これらの出来事について何人かの友人に話したことがあるが、彼らの多くはそんな感想をもらした。あるいは、
「僕にも似たような経験があります」
と言って、彼らの身の上に起きた説明のできない出来事を語ってくれた。
僕は黙って、彼らの話に耳を傾ける。僕は深い井戸であり、彼らはその井戸に小石を放り込むように言葉を放り込む。水面はわずかに波打つが、しばらくするとやがて波は消え失せる。水面は以前と同じ静けさを取り戻すが、実際にはまったく同じというわけではない。ほんのわずかだが、小石のぶんだけ水位が上がっているのだ。
「そんな不思議なこと」は、僕たちが想像するよりはるかに頻繁に、日常的に起きているのかも知れない。ただ、僕たちがそれと気づいていないだけで、じつは「そんな不思議なこと」は僕たちの日常にくまなく張り巡らされ、目に見えない営みを延々と繰り広げているのかも知れない。
それらは夜に翔ぶ鳥のように僕たちの視界を横切り、暗闇へと飛び去ってゆく。僕たちはその鳥の羽音を聞いたが、あとに残るのはひどく不確かな面影だけである。僕たちは暗闇に目を凝らすが、そこには遠い木霊がかすかに響いているだけだ。
◆
具体的な内容については読んでいただいたままの世界であり、そこに付け加えることはほとんどないが、ひとつだけ書き記しておきたいことがある。
ふたつのエッセイ(『光の川にたどり着くまで』と『サマルカンドの神託』)それぞれに出てくる友人たちは、ともに「そんな不思議なこと」によって人生の方向転換を余儀なくされ、本人たちの言葉を借りれば、ともに「すべてのキャリアをドブに棄て」て、苦難の続く道を歩むことになった。
じつは、彼らはお互いが友人同士であり、かつては一緒に映像制作をしてきた仕事仲間でもあった。
僕は彼らふたりから別々の機会に話を聞いたが、彼らの口からまったく同じ言葉が発せられることが何度かあり、僕はデジャヴのようなものに襲われて軽い目眩を感じることがあった。
彼らはともに「社会的な死を迎える」という言葉を使ったが、一方の友人と話をしていたある時、彼がこんなことを言った。
「こないだふと気がついたんだけど、僕の生活が破綻してしまった時と彼が破綻してしまった時は、じつはほとんど同時期だったんだ。つまり、お互いが同じタイミングで社会的な死を迎えたんだよ」
僕はふたりの友人の話を思い出した。時間的な経緯を頭に思い描き、彼の言っていることが間違っていないことに気がついた。僕はその時、かなり驚いた。そんなことがあるのか、と思った。一人はフランスのパリで社会的な死を迎え、もう一人は東京で社会的な死を迎えた。ふたりは友人同士だが、このふたつの出来事には微塵の関連もなく、それぞれが個別に起きていた。「そんな不思議なこと」が、ほとんど同時にふたりの友人を襲ったのである。
エッセイ本編には書かなかったが、僕は彼らふたりにまったく同じ質問をしたことがあった。
「超自然的なことを体験し、それがその後の人生を大きく左右したわけだけれど」僕は訊ねた。「神は果たして存在すると思う?」「超越的なものは」彼らは異口同音に躊躇なく、こう言った。「きっと存在するはずだ」
僕たちは沈黙した。彼らが発した言葉は、行き先を見失った船のように僕たちの間に漂っていた。
だがその船を浮かべたのは、僕たちが初めてというわけでは決してなかった。十九世紀にはドストエフスキーが浮かべ、十七世紀にはスピノザが同じ船を浮かべていた。だがいまだに寄港地を持たないこの船は、こうして僕たちのテーブルにもふらふらと彷徨ってきたのだった。
僕たちは問い続ける。「そんな不思議なこと」をまのあたりにし、体験しながら、それでもなお問い続ける。あるいは、戦争や社会崩壊によって虫けらのように殺されてゆく人々を見つめ、貧しさのどん底で、見捨てられた果実のように朽ちてゆく少年たちを見つめながら、同じ問いを問い続ける。「果たして神は存在するのか?」と。
◆
僕の拙いエッセイを「本にしませんか?」と誘ってくださり、その実現に大きな力を発揮してくださった春秋社編集者の江坂祐輔さんに大きな感謝を捧げたい。それから、僕がエッセイを書き始めた頃からずっと注目してくださっていた編集工房レイヴンの原章さん、執筆を陰で支えてくれた我がパートナーの恵、郷里の母親、そしていまは亡き父親に大きな感謝を捧げる。さらに、このエッセイのすべてを改稿し終えたその夜に大病となって倒れた我が愛犬ゾロにも。
最後になったが、本書に登場するすべての人たちにもやはり大きな感謝を捧げたい。
モンゴルの極寒の市場にたたずむ極貧の少女、マンホールに暮らす孤児の少年、ハワイ島の聖地を守るネイティブハワイアンのメディシンマン、沖縄戦を生き延びた初老の人、大切な素晴らしい友人たち、かつての若き日々をともに過ごした女性と彼女の娘、幼い頃に知能を失った僕の魂の双生児である従兄。
ありがとう。
そして、いまは亡き熊野の友人である野口さんと、郷里の川のほとりで永眠している祖母に、『光の川にたどり着くまで』の最後の数行に書かれた言葉をそのまま捧げる。
「俺はいま、年老いた海と年老いた山々が沈んでゆくのをお前と一緒に眺めている、そして若い海と若い大地が、ここから芽吹こうとしているのを見つめている、俺はここから生きてゆくことができるんだ、ようやく歩き出すことができるんだ、ありがとう、ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
二〇〇七年夏 午前二時 八ヶ岳
長屋和哉
※『世界は尊いか、生は尊いか~モンゴルにて2』は季刊「僧伽」(企画室僧伽発行)2005年春・夏合併号に掲載されたエッセイ『風の曳航~世界は尊いか、生は尊いか』を改稿したものです。